noob_mechanicsの日記

陰キャぼっち大学生の思想

ここ最近思うこと

8月に院試に受かってから完全に研究室の犬と化しているので、日記を書いていたことを完全に失念していた。

 

実験をしたり、ちょっとした出張をしたり、実験したり、実験準備をしたりと「犬になった」とか言って貶している割には研究室生活を楽しんでいる。今まで全く成績が振るわなかったが、実際にモノを作って触って、どうしたら上手く行くか、色々と調べもって考えるというプロセスは好きなのかもしれない。今となっては、ちゃんと数学なり力学なりの勉強をしておけばよかったと思うが、研究始めてみないことには勉強の必要性など分かるはずもなかったので仕方あるまい。

 

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さて、ここ最近色々とあって、学生の自主活動とその立ち位置について考える機会が増えた。

大昔であれば、学生運動だとか全共闘だとかそういったものが学生の活動の中心だったのかもしれないが、近年ではサークルや部活といったものが主流になっている。そんな中、最近では起業や環境活動といったものも学生がやる活動として多くなっているような気がする。

大学や企業が支援して「学生ならでは」の意見でビジネスを立ち上げよう!だとかなんとかイニシアチブだとか、なんとかイノベーションだとかとりあえず横文字使ってればそれっぽいだろうみたいなものがたくさん立ち上がり、多くの学生がそういった活動に力を注いでいる。

 

こういった活動に参加している学生は、能力が高く、人を束ねる能力がずば抜けているのだろうという印象を持たれることが世間一般的には多いし、自分も学部の1年の頃には同じように思っていた。しかし、実際にそういった活動をしている学生、そういった活動を支援している大人たちに出会う機会があるとその印象が大きく変わってしまった。

 

「起業」や「環境」などといった言葉を掲げて活動している学生なんて9割方ただのゴミカスだと思う。事務処理能力はその辺の学生と対して差がないか、むしろ今まで妄想空想だけで実務に携わったことがない分低い傾向にあるし、コミュ力(笑)が高いだけで社会性があるかどうか怪しいし、そのくせ声だけ大きく、リーダーになりたがろうとする。その能力も覚悟も継続する気もないのに、である。こういう活動をしている学生は、カッコいい横文字やビジネス、起業といった言葉が好きで、SNSでオナニー的自己顕示投稿をしている歯が無駄に白い胡散臭い起業家を妄信しがちである。こういう人が出している自己啓発本を鵜吞みにし、「できる人間の話し方」のようなものを脳死で真似する。自分の(正確に相手の考えを理解し、話の流れや、相手の気持ちを酌んだうえで有益な意見交換をするという意味での)コミュ力がないことに自覚的でないにもかかわらず、猿真似に徹する。本を読んでいるから自分は正しいコミュニケーションを取れていると思っているが、その実、進むはずの議論を止め、ただ話をその場で空転させるだけで仕事をした気になる。そういった人間がリーダーになって舵取りをするもんだから、当然やってる感だけでほとんど実体のない活動しかできない。しかも何が悪質かというと、そういった弱点・問題点に自覚的でないのである。

 

で、ここまでさんざん愚痴を垂れたところで本題に入るが、こういった学生がどうして現れるのかということについて考えたいのである。

結論から言えば、「起業」や「ビジネス」といった言葉に敏感な(だけの)学生を世の中の大人がもてはやすからではないだろうか。

学生が起業活動をする、なにかビジネスを興すといったときにほとんどの場合、大人が絡んでいる。(ここでいう大人は社会的に責任を取ることのできる立場にいる社会人という意味にしておく)

そういった大人たちは、一部の学生を良いように使ってただ働きさせよう、ひたすらそういった学生を唆して何か買わせてやろうと企んでいる奴を除いて、「若いやつらが頑張っているのを見ると元気が出る」だとか「若い人を支援してあげたい」だとか「この若者が社会に出た時に成長してほしい」だとか案外"熱い"思いで支援を行っているのではないだろうか。

(前者の学生を利用しようとしている大人たちに対しては何も思わない、ただそういうやつらに騙される馬鹿な学生が悪いとしか思わない)

 

私が問題視したいのは、後者の"熱い"思いで学生支援を行っている大人たちである。この人たちは大きな場で学生が何かしらの成果を出すことを求め、「何とか講演会で発表した」だの「誰だれと対談した」だの学生に大きなことをさせたがる。そして、その成否や実情、本当の中身には何の興味も示さず、「すごかったよ、よくやったね」と持て囃すのだ。

その裏に、どんなやり取りがあり、どんな人間がどんな動きをしたかには関知しない。このことがどんなに投げやりで無責任なことか考えてほしい。

中心になった人間にとっては多少なりとも有益なことかもしれない。学生時代の「実績」が増え、自信がつく。だが、その周りの人間はどうだろうか。自信をつけた中心人物は実際の仕事をどれだけやっただろう、実際に作り上げたものはどんなレベルのものだろう、本当に(大の大人が)無邪気に手放しにほめそやすものは、どれだけの人間の気分を害し、迷惑をかけて作ったものなのだろう。未熟な学生が企画し実行するのもなんてほとんどがとてもレベルが低い。それを振り返り、自分がいかに未熟か自覚したうえで次に改善をしていく。そういった機会をむしろ奪うことにはなっていないだろうか。

 

このように、大したこともやってないのに大人が用意した土俵で一発芸をやるだけで褒められる。そんな構造が果たして健全だろうか。大人が用意した、本当は学生でなければ簡単に立てない舞台ならば、正当に、その舞台にふさわしい評価基準で評価すべきではないだろうか。そういった舞台に学生を立たせるなら、それにふさわしい技術なり実績なりを作り上げることに十分責任を果たすべきではないだろうか。

 

これで勘違いした人間が、自分は人を束ねられる、実績を残せると思い込んで社会に出ていく。話を空転させるだけ、人を率いることの意味を勘違いし仕事を横に流すだけ、本質を理解せずに短期的に物事を片付けるだけで仕事をした気になる人間が増えていくのではないか。

大人たちの無責任な学生支援は、こういった「仕事をしている風」の人間で世の中を埋め尽くす結果にはなるまいか。

 

まぁ今社会を回している大人たちが「仕事をしている風」ばっかりだからこんな学生支援でも社会をよくするために意味があることだと思っているのかもしれない。

そうだとしたら、30年停滞した日本社会は今後向上することもないし、根本原因が再生産されているなら救いようが無いと思う。

 

最後、無駄に主語がでかくなったが何が言いたいかというと

 

_人人人人人人人人人人人_
> 意識高い系が大嫌い <
 ̄Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y